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若かりし頃
若かりし頃
まだ、20才代の当方。当時のポケットカメラ(勿論アナログ : 全く新し物好きである)で撮影のためボケボケ。
PRA-2000(上)
PRA-2000(上)
 ならば、プリも揃えてみようとPRA-2000を導入(白い自作ラックの右上)。それでも、こんなものなのかな、という感じだった。今思えば、猫に小判、豚に真珠。後日、PRA-2000はいじりすぎて壊してしてしまった。長岡先生の猿まねで、基板にエポキシを流し込んで固めたらクラックが入ってしまった。ド素人はやるもんじゃない。
 
(写真)ラックの後の壁には、ホームセンターで購入したコンパネを貼っている。
YAMAHA NS-2000
YAMAHA NS-2000
 当方の貧相な体つきはご容赦願いたい。
 
 1982年、国家資格取得とともに就職。自宅で寝るのは一週間に1〜2日、仕事もメチャクチャ忙しかったけれど、若いくせに分不相応な収入を得たのがいけなかった。余裕は全部オーディオに回して、ハイエンドの世界へ!
 
 1983年、SPをYAMAHA NS-2000に、アンプはaccuphase C-280+P-600にグレードアップ??それはそれはハイエンド。音は満足どころか、機械に支配されてしまって、とても自分の手には負えないのであった。
Accuphase C-280+P-600
Accuphase C-280+P-600
 これは、名古屋を引き払って帰熊するための引っ越し直前の写真。LP-PのシートはYAMAHAの吸着シート。右の自作ラックの上に見える黒い機械はNEC のCD-P第一号機。白い自作ラックの下手前にはMC-L10の箱とMC-L000の木箱が見える。(’04/02/21記)
DRW-1
DRW-1
 熊本の実家に帰っても、しばらくは前述のシステムだった。写真の約10畳の部屋は鉄筋コンクリート5階建ての4階。手前側は床板を剥がされ、15cm厚のコンクリート床にPタイルを貼って、その上に設置した。そこそこ満足していた。
 
 そんなある日、LP屋さんの紹介で松上さんと出会い、お宅をお邪魔することになった。事前に相当な長岡先生の崇拝者だと聞いていたが、積層キャビのSP-10mk3、SONY TA-E88ES、HMA-9500mk2、D-9、DRW-1、またはクオードのコンデンサー型SPというシステムで、優秀録音盤を聞かせて頂いた。衝撃を受けた。長岡先生風の表現なら、SPを無視して広がる音場とフワッと浮かび上がる音像、ドカッと出たかと思えばたなびくような余韻、、、どれもが強烈で新鮮な体験だった。自分はいったい何をやってきたんだろうか。最大の要因は当方の頭脳ソフトにあった。マルチマイクの至近距離録音のものをワンポイント録音のように鳴らそうと、ある意味無駄な努力をしていたのである。録音されている物しか再生されないことを、分かっていなかったのだ。つまりオーディオの基本を分かってなかったということである。そして知らぬ間に似非芸術家気取りになって果てしない迷路に迷い込んでしまっていた。芸術家は演奏者であり、オーディオは道具なのだ。
 
 180度路線変更。音楽としてはロックも好きだ。しかし、オーディオ小僧の好きな「音」は別にあった。不思議なことに、優秀録音盤を聞くにつれて好きな音楽の傾向も変わってくる。音圧で来るロックとは違った、クラッシックや現代音楽の真にエネルギッシュな音に感動するようになった。しかし、すでに1986年。CDの時代になってしまっていて、慌てて優秀録音盤の購入に奔走した。ここでお世話になったのが熊本のレコード屋さん「ブロードウェイ」の長谷さんである。
 
 それと同時に機器の変更、つまりグレードダウン?!だった。寿屋本荘店にお願いして、一度は放出してしまったHMA-9500mk2を 全国の営業所をくまなく捜索して頂き、元箱すらボロボロになって放置されていたメーカー在庫最後の一台を入手。動かせないLP-PをやめてSL-1000mk3。そして、丁度長岡先生が発表されたD-70を製作。長岡システムのコピーをやってみようというわけだ。しかし、そうは問屋が卸さない。初めての大物製作がD-70という無謀な試み、当然苦労した。父親の知り合いの建築業者を通じて、シナ合板を指定して板材を切ってもらったものの、音道を正確に組み立てることの難しいこと。それにすでにディスコンとなってしまっていたYAMAHA JA-0506U、YAMAHAの地元である名古屋のオーディオキャビンPACOさん(転居前の地元のオーディオ屋さん)に無理矢理4本探してもらった。
 
 完成しておったまげた。何と開放的でエネルギッシュな音か。気をよくして今度はDRW-1まで製作した。今思えばDRW-1は真価を発揮できぬままに終わっていたが、その超低音の出方はこれまで経験したことのないものだったことは確かであった。ところが、これだけ苦労して作ったD-70なのに、残念なことに写真の一枚も残っていない!
 
以上、第一部終了。以後、プロフィールにつづく。(’04/02/24記)
PRA-2000ZR
PRA-2000ZR
 プリアンプとして新品購入した。特製真鍮脚に交換、適度な(当方がそう思っているだけ)ダンプをしている。
 
 '03/01現在、フォノイコライザーアンプとして使用中。'02年末、いろんなプリアンプ(フォノ・イコライザーを含む)を試聴してみて、これを全ての点で上回る市販品はないと結論。古くて調整にも出したが、腐ってもPRA-2000ZRだった。しかし、後釜を探し続けておかねばならないことには変わりはない。
 
'03/09 3度目の故障。フォノイコの座を窪田式スペシャルフォノイコに、に譲ることとなった。同時にプリとしてもSATRI PRE-7610に交代し引退。「あーく」永久保存品。
D-55 / Pioneer C-AX10
D-55 / Pioneer C-AX10
まとめてしまって、機器達には申し訳ない。
 
D−55
 FOSTEXキット。D-70に次ぐ二作目の自作BH。ユニットは、FE-208SSも208ESも購入したがFE-208Sのままで終わった。出来上がりは、当方のレベルとしてはきれいに仕上がった方だと思っている。特別な仕上げはしていない。ホーン開口部の段差には、鉛インゴットを吸音材と共に敷き詰め、
トゥイーターは、FT-90HG(FT-90Hの限定品)を1.0μFのΛコンデンサーで繋いでいた。
 D-70の浪々としたスケールの大きい鳴りっ振りも大変好きであったが、フルレンジ一発の良さと鳴りっ振りの良さを兼ね備えたD-55も、気に入っていた。しかし、「あーく」に置いてみたら低音が充分とはいえない。そこで、SW(低音をブーストするという意味で)の増設を考えたのだが、、、どうも質が違う。BHの低音補強は難しい。
 2001年12月、ネッシーVにその座を譲る。
 
Pioneer C-AX10
 「あーく」ができて間もなくの頃、将来のSW設置も見据えて店頭展示品を安く購入した。実際、デジタルチャンデバは驚きの効果を示した。
 2002年7月、メーカーバージョンアップ。オーディオクオリティ(?)をもって5.1出力の様々なパラメーターをデジタルコントロールできる優れたコントロールアンプ。オリジナルでは未対応の、ドルビーデジタルやDTSのマルチch出力、アナログ・ライン2chのドルビープロロジック再生もメーカーバージョンアップされた。が、故障も多く、その真価を発揮する前に放出(2003.4.19)。


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